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白水社のエクス・リブリスが
刊行十周年記念に作った冊子のロゴを提供。
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移民たち
W.G.ゼーバルト 白水社
AUSTERLITZ
アウステルリッツ
W.G.ゼーバルト 幻戯書房
AUSTERLITZ
星をつなぐために
沢木耕太郎 岩波書店
KOUTARO SAWAKI SESSIONS 4
装画 桑原紗織
家風を盗んだ男
善渡爾宗衛 杉山淳/編 幻戯書房
THE MAN WHO STOLE KAFU
装画 タダジュン
家風を盗んだ男
善渡爾宗衛 杉山淳/編 幻戯書房
THE MAN WHO STOLE KAFU
装画 タダジュン
家風を盗んだ男
善渡爾宗衛 杉山淳/編 幻戯書房
THE MAN WHO STOLE KAFU
装画 タダジュン
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OLDNEWS #12 最新号掲載記事
#ODAWARA
あるファシリテーターの結婚式
丹羽 妙 (ファシリテーター)
二〇二五 年二月二十二日は、私の結婚式でした。
場所は、日本酒の酒蔵が点在する伏見桃山駅、商店街のほど近く。東華菜館など京都の明治建築を担ったウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した、小さいながらも由緒あるプロテスタント教会です。
昨年秋に入籍した当初は、カジュアルなウェディングパーティを一年後にやろうかと、のんびりした計画でした。パワースポットや占いは好きでも、組織だった信仰や宗教に感じられる権威性が苦手だったということもあります。
明治時代からの信仰の場で結婚式をするとは、夢にも思いませんでした。
きっかけは夫の父。気軽にウェディングパーティ参加の都合を聞くと、「司祭(結婚式の進行)をさせてくれるなら、行けます」との返信が。義父は牧師で、しかも自ら福音主義に入信した篤い信仰心をもった人です。
そんな義父に「ウェディングパーティ前の、二人の生活が始まる早い時期に神に誓うことが、今後の二人の気持ちを引き締め、夫婦としての礎を築いていく大切なことです 」と説かれたならば、断れるものはいないでしょう。ご縁のある教会をお借りして、親族のみの結婚式を執り行うことになりました。
「司祭をさせてくれるなら」は後からジョークと知りましたが、当時「これが、この家の嫁になるということ?」不穏な気持ちになったことは秘密です。
さて、引っ越しや仕事に追われて考えが至らないまま年を越し、年始に当の教会へ下見にいきました。
ショックでした。
正面の壁にくっきりと埋め込まれた十字架を中心に、あちこちに残る手作りのクリスマス飾り、オルガン、教会の椅子、納骨堂。直向きな祈りに満ちた異国に迷い込んだようでした。
「ここじゃ、自分でいられない」
不安感にフォームを崩したままの打ち合わせでは、会の進行はもちろん、バージンロードやお花の飾り付けさえも、義父主導のように見えてしまいます。
その夜、夫は概要が決まって意気揚々と帰りの新幹線に乗り込みましたが、新幹線を降りた時には「お義父さんに結婚式を取られた」と泣き出す私をあやす羽目になりました。
慌てて、夫がカップルセラピーを予約。少し落ち着いた私は「お義父さんのやる気」こそ、もつべきエネルギーだったことに気づき、そのためにも教会に感じるアウェイ感を克服しようと思いました。
セラピーでは、アボリジニから着想を得たベクトルワークに取り組んだのですが、異なる方向性をもつエネルギーを足し合わせて道を作り、その道を歩いて味わうものです。私の場合は、私なりの宗教観を示す「道」と、教会に感じられたエネルギーを示す「道」、「これから二人が歩んでいく道」を足し合わせた「統合の道」をセッションルームに実際に作り、その始点から終点まで歩いていく経験をしました。
自分で設定した「統合の道」を踏み出した時、終着点には夫がこちらを向いて立っていて、私は白く輝く道を、一歩一歩踏み締めました。
ーー私は、何重もの祈りに包まれている。
キリスト教、沖縄、小田原の、宇宙の、神なるものに祝福されているような切ない感激に涙が伝いました。
「私、花嫁さんみたい」
セラピストには「あんた、花嫁やないか!」と突っ込まれましたが、思っても見ない言葉でした。
私にとって、それまで「花嫁」という言葉の陶酔感(周囲から一心に視線を受け、自分ごとに感激している感じ)にピンとこず、花嫁として着飾ることすら意欲が沸きませんでした。
「統合の道」を歩いてみて分かったことは、バージンロードで祝福される感動を通して、「花嫁」は新しい家族に染まる準備をするという意味がある。そして自分についても「キリスト教の世界にも祝福されて、花嫁になろうとしている」そんな確信が生まれました。
そこからは、ファシリテーターらしく楽しいことづくり。
「お義父さんの、そして私たちのやる気」を集まる家族全体に共有するべく、参加型のしかけをあちこちに。指輪を持っていくリングガールを甥っ子に、バージンロードに花を巻くフラワーガールを姪っ子に、総監督は夫に。子ども達が前に出る機会を通して兄夫婦たちとも、お義父さんとも話ができて意識が揃っていきました。お義父さんとお義母さんの飾りつけ。お兄さんのプロフィール。お姉さんが子ども達に歌を聴かせたり、遺品を花嫁衣装として譲り受けたり。直前に向けて意図が重なっていきました。
私にとってのクライマックスは式が終わった後にありました。
大人が片付けているのを見て、バージンロードに巻いたたくさんの花びらを一緒に片付けようとする子ども達。けれど化繊のせいで、カゴにいれようとしても、ふわっと広がってしまってなかなか片付きません。
「もういいんじゃない?」
写真撮影に急ぎたい大人が声をかけても、脇目も振らずに拾い続ける子ども達に、親たちが顔を見合わせて拾い始めました。大人も子供も神父も花嫁も一緒にバージンロードに広がったお花を拾って、ふわふわと舞う花びらを追いかけました。
家族みんながこの場を大切に思っている。
そんな場にいる幸せが、私たちを夫婦にしました。
##SEOUL
いつの時代の戒厳令
呉徳周 (エンターテーメント会社勤務)
東京とソウルを行き来する生活が始まった。
ソウルで見る韓国と、東京で見る韓国。同じ韓国だが見える風景が少し違っている。
ようやく春が訪れたソウル。でも気分は冬のままだ。いや、心は怒りに満ちて熱い。
二〇二四年十二月三日夜。SNSが騒がしくなり、テレビを付けたら大統領が戒厳令を発令していた。「ちょっと何言ってるかわからない」サンドイッチマンのツッコミがリフレインする。テレビやWEBを検索し、友人、知人記者のSNSを追跡する。幾人かはマイカーやタクシーで国会へ向かいながら라방(ラバン)/
ライブ放送をする人も。
とにかく急がねばという焦燥感。
次々と飛び込んでくる国会前での軍と国会議員、一般市民との衝突の映像。国会議事堂の壁を越え突破する物々しさを目の当たりにするなか、多くの人が思い起こしたはずの映画『ソウルの春』。春ではなく冬を舞台にした物語だが、そこに春は来ない。たった一晩だが、あんなにあっけなく幕切れになった黒歴史を描いた映画。一年前に公開された時は、鑑賞後の怒りで高まった心拍数をSNSにアップする“心拍数チャレンジ”が流行するほど国民を憤らせた映画だったが、国中から「あの夜と同じ夜にしてはならない」という叫びが聞こえてくるようだった。
二〇二四年十二月四日五時十八分。戒厳令解除。終わってみれば呆気なかった。寝ている間に始まり、終わってしまっていた人も多い。
しかし、ざわつく心は落ち着かない。
親しい後輩の記者は「深夜、タクシーで急いで国会へ向かう時、このまま逮捕され二度と家族と会えないかも知れないという恐怖を拭えなかった」と言ってたが、その絶望感は容易に想像できる。もし戒厳令がそのまま成功すれば、全てが暗黒色に変わっていただろうから。
「いつの時代に戒厳令だよ!恥ずかしい…」方々で嘆きが聞こえてきた。
恥ずかしい。この言葉は韓国での表現が多様だ(韓国語は日本語よりも形容詞の数が多い)。幼い頃、日本にある朝鮮学校で学んだ「恥ずかしい」は부꾸럽다(プクロプタ)一択だったが、韓国映画に関わる仕事を始めてセリフから多くの表現を学び、バリエーションの豊富さに驚いた。最初の気づきはヤクザ映画の代表作『チング』の名台詞「쪽팔리다(チョクパルリダ)」。あえて罪を被る主人公。ヤクザとしての友情と体面が傷つくという意味での恥ずかしい。(俺的解釈・以下同様)。一方「부꾸럽다(プクロプタ)」は「社会の窓が開いていますよ」と言われたときのような恥ずかしさ。(ちなみに韓国語で同様な表現は「南大門が開いていますよ」)
ヤクザ映画が使うくらいだから、쪽팔리다(ルビ:チョクパルリダ)は日常ではインパクトが強い。強さ順で次にくる창피하다(チャンピハダ)」や「민망하다(ミンマンハダ)」。前者が、体面が損なわれたり、痛い目にあって恥ずかしい。後者が、見るにもどかしく気の毒、顔を上げて接するのが恥ずかしい(NAVER国語辞典より俺的翻訳)。前者は自身の中から湧き起こる恥ずかしさで、後者は第三者ありきの恥ずかしさといえよう。
韓国語にこんなに「恥ずかしい」が多様なのは、長きにわたって数多くの「恥」を背負ってきたからだ。それは言葉を変えれば「怒り」だ。怒りがあるから、恥ずかしい。ちなみに怒るは、화가 나다(ファガ ナダ)で、直訳すると、火が出る。
怒りが大きくなればなるほど、恥も大きくなる。
近くにいると腹が立ち、遠くから見ると恥ずかしい。まるで家族のいさかいを見るかのように。
東京とソウルを行き来する生活が始まって四ヶ月。昨今の韓国の情勢が俺の怒りと恥を刺激する。
아이고ー(アイゴ)、화가 나고(ファガ ナゴ)、쪽팔리고(チョクパルリゴ)、 민망하고(ミンマンハダ)、부꾸럽다(プクロプタ)(アイゴー、腹が立って、恥ずかしくて、恥ずかしくて、恥ずかしい)。
#NEW YORK
もうないかもしれない家族の日々
シー鈴木聖子(ナレーター・声優)
先日、家族でボストンへ行ってきた。
アメリカでは高校二、三年生になると、多くが自分に合った大学を見つけるためにキャンパス巡りをする。事前にリサーチし、興味のある大学の説明会に申し込む。そして当日、在校生に案内されながらキャンパスツアーをするのが一般的だ。春になると、高校生たちは学校の休みを利用して、あちこちの大学を訪れる。自分の生まれ育った場所から遠く離れた大学に足を運ぶことも珍しくない。
高校三年生の娘のいる我が家にもキャンパス巡りの時期がやって来た。NYの寒さから逃れるため、暖かい西海岸に行きたかったが、人気校の説明会は何ヶ月も前でも既に満員で予約が取れなかった。仕方なく二月の春休みはボストンへ行くことになった。
ボストンは、私にとって思い出の街だ。父の赴任に伴い五、六歳の頃に住んでいたことがあり、二十代半ばにはサマースクールに通うために二ヶ月滞在したこともある。NYより大学周辺には緑が多く、青春真っ盛りの学生たちで賑わう活気ある街のイメージがあったので、今回の訪問を楽しみにしていた。
しかし、冬のボストンは想像以上に寒かった。体感気温、マイナス十二度。記憶にあった綺麗な街並みは、氷に覆われた小道と枯れ木が並び、人通りも少なく閑散としていた。
娘とは仲が良く、今ではまるでベストフレンドのような存在だ。しかし、この前まで赤ちゃんだった娘が、いつの間にこんなに大きくなってしまったのだろう。気づけば洋服も共有、振る舞いもすっかり大人びている。将来の進路に頭を悩ませて不安を抱えている姿を見ると、成長を誇らしく思うと同時に、寂しさを感じずにはいられない。一年半後には大学生になり、家を出ていく。アメリカでは大学卒業後はそのまま就職後して実家に戻ることは少ない。今のような四人家族の生活にはもう戻らない。そう考えると、焦りを覚える。できることなら遠くへ行かず、そばにいてほしい。
どの大学も説明会は毎日何度も行われているが、会場は100人以上の高校生とその家族で溢れていた。みんな真剣に耳を傾け、希望に胸を膨らませている。そんななか、私の頭には「娘はあと一年半で家を出る」という事実で溢れていた。キャンパスツアー中も、カリフォルニアの大学に行かれるくらいなら、ボストンのほうがまだ近いなどと考えてしまう。ボストンの印象にあまり惹かれない様子の娘に「冬だからこんなだけど、夏はもっと綺麗で賑やかよ」と必死に説得している。
途中、友人の家にディナーに招待された。彼らは、末っ子の大学がちょうど決まったところだった。「末っ子が大学に行ったら、もっと小さな家に引っ越そうと思う」という言葉を聞いて、さらに寂しさを覚えた。アメリカでは子どもが巣立った夫婦や家庭のことをエンプティーネスター(空っぽの巣)というが、その日の訪れが近づいてきているように思えた。
三日間で五校訪問したが、あまりの寒さに観光は断念。予定を一日早めてNYへ帰ることにした。雪景色を横目に、電車に揺られる四時間二十分。同じ東海岸とはいえボストンは遠い。 ふと私自身の母親との関係を思い出す。母は東京にいるが、私は二十五年以上、ニューヨークに住んでいる。娘は家を出たら、どれくらい私のことを気にかけるのだろうか。今までは当たり前に過ごしてきた家族四人の日々が、もうすぐ過去になろうとしている。
#MACHIDA
別れと出逢のなかで正解を作る
ZION(アーティスト・Webライター)
私がこの文章を書いている頃はまさしく「別れと旅立ちの季節」である。そしてこの文章が記載される頃は、新たなる出会いも落ち着いてくる頃だろう。
三月十三日、大学を卒業した。まさか一度も留年せずにあの四年間を駆け抜けられるとは思ってもいなかった。滝のように涙を流す者、比較的ドライに受け入れる者、人知れず思いをのせて歌を作る者、私たちの卒業に対する同期や後輩の反応はやはり様々である。(私は終始ドライな方だった。卒業してもちょくちょく後輩の様子見に行くつもりだし)
これからの人生において私たちに求められる力とは「正解を選ぶ力」ではない。「既に選んでしまった道や作った道を後から正解に変えていく力」だ。全ての事象に正解も不正解も、ポジティヴもネガティヴも本来は何もない。
どんなに大きな成功だって必ずしも意味をなして次に繋がるとは限らないし、あの日心地いいと感じた晴天と澄んだ空気もどこかで知らない誰かも地獄に突き落としているかもしれない。
どんなに重い失敗も糧となって次に繋げられるだろうし、いつかの押しつぶされそうになった土砂降りもどこかで知らない何かを助けているかもしれない。
どう考えてもピンチだと思える状況も、捉え方次第ではチャンスになる。自分の捉え方次第で世界はどうにでもなる。先入観を取り払って考えて動いてみよう。
これは私もここ数年痛感していることだが、自分が当たり前と思っていた感覚でさえ他の人から見ても当たり前とは限らないのだから…
「自分」という人生、「自分」という物語の主人公は他でもない「自分」だ。何が起きてもポジティブな面を捉えて自分なりの正解へと導いてしまえば、最高の人生が歩めるはず。ここまで読んでくれた人達は今からでも遅くない。どうか選んだ道を後から正解に変えて最高の人生を目指して欲しい。(でも犯罪とかはどう捉えてもダメだよ)
話を戻そう。卒業する前の日に部活で最後の飲み会が開かれた。そこでは恒例行事として、卒業生は後輩達に贈り物をするのだが、そこで私は買いすぎたサングラスを配ったほか、ある後輩に白と黒のストライプ模様に骸骨の刺繍がされたリストバンドを贈った。
私が小二の時、このリストバンドをつけたまま授業を受けていたところ、先生に外せと言われた。別にすごく気に入ってたわけでもないのに何故か私は頑としてリストバンドを外さず、ただひたすら先生を睨みつけていた。
年末年始にあった実家の引っ越し作業中にこれが発掘され、何となく持って帰ったものの今はもう頑として外さないばかりかつけることもあまりないだろうし、その後輩の方が似合うと思い贈ったのだが、なんてことだ。「クソダサい」「サングラスの方が良かった」と言われてしまった。
あのリストバンドは先生と後輩を、「正解」に導くことはなかったのだ。
#WAIHEKE ISLAND
英語の学習、始めました
芹澤絵美(ヴァイン・グローワー)
英語圏に移住して早一三年、私の英会話能力はまったく向上しないまま年月だけが過ぎ去っていった。英語、書けるけれど話せない。読めるけれど話せない。考えていることが英語になって口から出てこない。英会話に必須の聞き取りさえも正確に出来ていない。もともと口数が多く、論理的思考にもとづいて会話するタイプの私は、自分の考えていることが、英語で、正確かつスムーズに口から出てこないことに常にストレスを感じながら仕事をしたり日常生活を送っている。そんな袋小路にはまったままの私の英語が、三ヶ月前にDuolingoというアプリに出会ってからめきめきと上達し始めた。
私の英語学習は、小学校の時に母に英語学習塾に通わされたことから始まる。アルファベットや簡単な単語を覚えるレベルで、なぜかは覚えていないけれどいつの間にか通わなくなっていた。その後は、多くの日本人と同じく中学や高校の授業で英語の文法を学び、試験でもそこそこ高得点が取れてそれなりに得意分野ではあった。成人してスタイリストになり、職業柄英語が必要だったので、英会話教室に行ったり、リスニングの教材を定期購入したり、英語の周波数やリズムを耳で捉えやすくするための施設に通ったり、英語の漫画を読んだり、英語のドラマや映画を集中的に観たり、試行錯誤してきた。今は、相手の言っていることは推察を含めてなんとなく理解出来るし、聞かれたことに対しての返答も知っている単語をつなぎ合わせてなんとか答えられるし、とりあえず意思疎通は出来ている。けれど、私の求めている英会話とは程遠い。
英語圏に住んだら嫌でも英語が話せるようになる、と思っている人が多いけれど(私もそう思っていた)、英語圏に住んでもそれだけでは英会話はちっとも上達しない。なぜなら会話の相手は私に英語を教えるために存在しているわけではないから、間違いは訂正されないままだし、仕事や日常生活で使わない英単語はまったく増えていかない。さらに、相手の英語が自分の理想の話し方をしているとは限らない。個性的な日本語を話す日本人がいるのと同じように、英語ネイティブは、その人独自の話し方になっていることが多い。そんな環境にいると、理想とは違う英語表現を中途半端に覚えて使うようになる。他にも、日本人同士でも、ちょっとこの人何を言っているのか分からない、という時があるように、英語ネイティブ同士でも表現力不足で互いに理解出来ていなそうな会話を聞くことがある。言語力の問題ではなく、その人の理解力と表現力の問題であることもある。英語がスムーズに話せない私が、英語ネイティブよりも説明をよく理解している場合も多々ある。これらが英語圏に住んでみてわかったこと。だから「英語圏に住んだら自分の求めている英会話が自然と身につく」なんてことはほぼ稀であるのではないかと思う。
今の私が欲している英会話は、簡単でもいいから流暢に話すこと。それを確実に身につけさせてくれると実感しているのがDuolingoだ。このアプリを使い始めて、現在の私の英語の問題点、間違って覚えている文法、自分流のクセがついてしまっているおかしな話し方、それらがひとつひとつ丁寧に矯正されていくのが実感出来る。AIが私の欠点をデータ収集していくので、苦手なところや凡ミスが改善されるまで、何度も何度も形を変えて出題し、たくさん励ませてくれながら根気強く楽しく学ばせてくれる。
Duolingoを始めたばかりの三ヶ月前は三歳児が話す綺麗な英語、今は七~八歳くらいが話す綺麗な英語という感触。それでも何十年も英語学習の袋小路にはまっていた私にとっては、自由に飛べる羽を与えられたように感じる。今はブドウの収穫が始まりいろいろなタイプの地元民と話す機会があるのだけれど、去年よりも今年のほうが彼らと会話することが楽しく感じる。そこにはDuolingoで学習中の生きた文法や会話が満載で、よく聞き取れるようになったし、考えていることが前よりスムーズに口から出せるようになった。頭の中は五十代の理論派なのでまだまだギャップがあるけれど、私の中の英語人格はいま急成長している。
#HIGASHINURAYAMA
桜の道
金子 恵 (イラストレーター)
犬と連れ立って、桜の花がひらく様子を見に行く。
公園にも街路樹にも桜の樹が植えられているから、散歩のときは桜が見られる道を選んであるく。
風に揺れる枝の下、うす桃色の花びらを犬が追いかけていく。
東村山市は映画「あん」の撮影地なのだという。
見慣れた風景がカメラ越しに映しだされて、フィクションと現実が混じりあうような、ふしぎな気持ちになる。
駅の近くにある桜の連なる道に、映画ではどら焼きを売る店があった。
撮影のためのお店だから現実には存在しないけれど、どら焼き店の店主が暮らしていたアパートはいまもそのままだ。
撮影から十年が過ぎ、いくつかの桜は老いて伐られたり、枝を刈り込まれたりした。
映画に映る桜並木よりすこしさびしい姿になったかもしれないと思う。
みじかくなった枝にも桜の樹々は淡い花々をつける。
歩道から霞のような花を見あげると、どら焼き店の店主も餡づくりの女性も、ほんとうにここにいた人たちで、いつか会ったことがあるかもしれない、という気がするのだ。
「あん」ドリアン助川/著(ポプラ社刊)
映画「あん」河瀬直美/監督 2015年公開
#from EDITORS
渋谷・心地のいい場所
緒方修一(本誌編集長・装丁家)
百軒店は心地のいい場所だった。遠いむかし軍人たちが行き交い栄えた面影は消えていたが、入り組んだ石段から突き出た鉄柱は錆びながらも骨太で、大人たちが慌てて造った拙速の気配を私は好んだ。
要塞めいて迷路状に入りくむ町の空気は映画撮影場さながらに生気がなく張りつめていた。まばらな通行人は道の端を老猫のように音をたてずうごめく。繁華街に置き去りにされた百軒店に私はたびたび逃げこんだ。
誰に追われている訳でもなかったし、追っ手の正体は自分の影だったかもしれない。それでも百軒店に一歩立ち入るだけで肩の荷が下りた気がした。
地図を覚えるには頭だけでは足りないと思ったのは馬鹿な考えだった。おかげでずいぶんと無駄な出費を重ねた。
百軒店は四方八方に侵入路と退出路を備えている。センター街。神泉。道玄坂。山手通り。甲州街道。南平台。出口次第で通行人の層やファッション文化も異なる。百軒店の外はどれも真っ当な都市だったが私にはどこか嘘っぽく映った。立ち停まる私に百軒店は虚飾の中で頑張れと背を押してくれた。
密集するホテルや風俗店のせいか百軒店一帯はファブリーズの匂いが漂っていた。同じ匂いの風が宮益坂下やスクランブル交差点で吹くたびに、渋谷の地下の奥深くには百軒店から流れ落ちた大量のファブリーズが石化し巨大な岩になっている光景を思い描いた。
懸命に正体を誤魔化そうとする街。匂いを消すための匂い。百軒店に逃げこむ自分と重なっていた。
夜。宮益坂の仕事場にスタッフを残したまま並木橋のさかえ湯の湯船に私はいた。数台の洗濯機が備えられた深夜銭湯は外国人労働者たちに重宝されていた。濁った湯船に長風呂で有名な常連の柳詰さんがいた。若いころ長岡で花火職人だった老人は九十ちかい。花火大会の自慢話を幾度となく聞かされていても、言葉の通じない外国人に熱弁する姿は眺めていて飽きなかった。私には柳詰さんが命懸けで打ち上げた正三尺玉を想像する気力もなかったが、私の仕事の装丁とは比べものにならない気がした。一瞬の花火と残り続ける本の表紙。格好良さで惨敗だった。
銭湯から戻っても仕事場の灯りはまだついたままだった。スタッフが帰宅してからが自分の仕事の開始時刻だった。時間潰しに井ノ頭口のぼっち客歓迎の焼き鳥屋によく通った。店のママはカップルを露骨に嫌悪していた。男女が話しているだけで「あー、まったく……」「そんなのホテルでやってくれよ」と、明後日のほうを見あがら聞こえるように嘆いてみせた。その都度ぼっち席に並んだオヤジたちが息を合わせうなずくので、私も同じ席で浮ついたカップルが入ってくるのを密かに待っていた。
ぼっち席のカウンターの下にある置き棚に私は何度も洗面器を忘れた。気の短いママは躊躇なく処分しただろう。それでも焼却され再利用された洗面器のカケラが街のどこかにある気していまでも嬉しくなる。
焼き鳥の煙とファブリーズをまとわせ原宿駅へと歩く。ファイアー通りを登りきると渋谷を見下ろすことができた。代々木体育館のあたりからの山手線に沿う金網のある上り坂は心地のいい場所だった。
あの数十メートルの坂で考えごとをする。
切羽詰まった決断などではなく、すぐに忘れてしまったほうがいい自分にとって些細で必要な考えごとだった。国土計画のあるオリンピック橋で引きかえす。視界に入る青山に自分は馴染めない気がした。
戻り道。消防署あたりで閉まっているはずのテナントビルの階段を、大きな袋を両手に抱えた青年が飛び出してきた。闇に溶け込もうと先を急ぐ痩せた青年の歩きは百軒店の通行人と似ていた。出てきた店の窓でMLBの旗がなびいていた。そこはメジャーリーグのアイテムショップだった。
彼が日本で芽の出ない若手プロ野球選手だと私は気づいていた。二年も過ぎると頭角を現わしメジャーリーガーになった。夜中にグッズを買い漁り、顔を伏せながら渋谷を歩いていた青年が憧れの世界の一員になれたことが私には嬉しかった。
彼がさかえ湯の湯船で経歴を豪語することはないだろう。どうであれ柳詰さんの花火に比べれば退屈な話だ。
*編集後記
欠点を見逃すことのないAIだけが、孤立した私を支えてくれる。その頃、映画撮影のために造られた即席の桜並木にようやく風情がともなう。こげたどら焼きの煙は風にのって教会までとどく。花嫁姿のファシリテーターは神々の前でも肩書きだけは下ろさない。米が舞い散る空、海峡の向こうでは恥色の雨が降る。戒厳令さながらのコンプライアンスに護られながら、当たり前だったはずの家族の日常は途絶える。そうして反感を買ったはずのリストバンドだけが心の中でにらみをきかせ続ける。編集長・緒方修一