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編集後記
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#WAIHEKE ISLAND

 

あんがい世界は不確実

 

​芹澤絵美 ヴァイン・グローワー​ 

 

 世界中の図書館や資料館の知識を一堂に集めたような魔法の箱を私はつねに携帯している。しかも、印刷された書物と違い、その中の情報は常に流動し、日々アップデートされる。無限に広がり続ける記憶装置を第2の脳として私は所有している。自分自身の脳と同じく、使い方はその人次第。こんな時代にあって、学校で習ったこと、既知の出来事や、過去に偉い人や公的機関によって確定された史実、それらが実はとても不確実なものであることを私は感じ始めている。 

 かつて、資料や書物が記されたとき、その時代の人々がその時点で、出来うる限りの情報を集め、調べ尽くして、熟慮に熟慮を重ねて世に送り出したと思うが、その際にどこかで別の可能性、小さな別の事実を切り捨てたかもしれない。今まではそんなことを考えたこともなく、教科書に載っていること、辞典で説明されていること、権威ある人々や機関が発表した論文などは、情報として正しいと素直に信じてきた。他の可能性になど思いを馳せることもなかった。なぜなら自分で直接調べたり学んだり知ることが簡単には出来なかったから。 鎌倉幕府の成立年が、教科書等で1192年から1185年に改定されていることは記憶に新しい。こうなってくると年号を試験問題にするのはいかがなものだろうか? と思ってしまう。入試で鎌倉幕府の成立年を1186年と書いた受験者がいたとして、それを果たして不正解と言い切れるのだろうか? 鎌倉幕府の成立年だけに限らず、今まで習ってきた日本史、世界史など、諸説ある学問の中には、”どこかで決着をつけないといけないから、数ある説の中から一番有力なものを選び、ひとまずこういうことにしておく”という、実は曖昧なものが含まれているのではないだろうか。

 歴史に限らず、現在の生きた情報の伝達でも似たようなことが起きている。その人自身が実際に見聞したことを事実と呼ぶとして、その事実を他者間で共有していく間に微妙に内容が変わっていくことはよくある。途中途中に個人的な意見が混ざって、いつしかオリジナルの事実を改ざんしてしまう。「噂では~」「~らしい」「個人的な意見ですが~」「実際に見聞したわけじゃないですが~」「~とされている」という注釈をつけると、不確かな情報であることは一目瞭然だけれど、ニュースやラジオに出演している解説者の中には、自分が直接見聞した以外のことも断定的に説明している者もいる。これが最近気になって仕方がない! 曖昧な発言は避けたいだろうし、だいたいは一次情報をきちんと調べて解説していると思うが、その一次情報でさえも実は曖昧である可能性が捨てきれない。

 つい先日も、「陰謀論」という言葉を使って、ある種の説をデマと断定しているのを見かけた。陰謀論とは「ある事件や出来事について、一般に認められている説や事実とは別に、策謀や謀略によるもので、信憑性に乏しい説」とされている。では、私たちの住む世界のどこかに陰謀があるのかないのかといえば、もちろん陰謀は世界中にある。陰謀とは、陰に隠れた策謀のことであり、この世に陰謀がないのであれば、諜報機関は必要ない。彼らの存在そのものがこの世に陰謀があることを示している。一般に認められていないから陰謀なのである。警察などの捜査機関は陰謀を疑うのが仕事でさえある。「信憑性に乏しい」とは、=多くの人が信じていない、というだけで、信憑性に乏しいからといって陰謀がないとは言い切れない。

 人々が「陰謀論」という言葉を使う時、その説を全否定してその言葉を使っているのか、文字通り陰謀の可能性を論じているのか、私はその違いに注意して話を聞いている。「陰謀論を信じてしまう人が増えている」と問題視する発言をよく聞くようになったが、それは過去の定説や公的機関からの情報の信憑性が乏しいと人々が感じ始めていることの現れな気がする。情報を発信する側は、事実のみを表に出しているのか? そこに世論誘導の意図はないのか? 実は現状と違いがあるのに、それは当事者だけが知っていることなので、表向きはこういうことにしておきましょう、辻褄をあわせましょう、操作した情報を流して敵対者の出方を見てみましょう、ということは実際には山のようにあるはずだ。

 「陰謀論」という言葉は、人々のこうした憶測の矛先を、権力や権威に向けさせない為に作られた心理用語なのではないかと思う。大衆の憶測の連鎖は大きな革命を生み出すこともあるからだ。

 こんなふうに最近はモヤモヤしているので、公共の電波でどこかの権威ある解説者が自分が見聞したこと以外の内容やどこかの国の大統領の考えていることをもっともらしく話しているのを聞くと、真実性の曖昧さにおいて、その意見はいわゆる陰謀論と大差ないのに、それを素直に信じる人が少なからずいることを考えると、陰謀論よりも悪質なのではないかと思ってしまい、「適当なこと言いやがって」と心の中で悪態をついてしまう今日この頃なのです。

 

 

 

 

 

​​​​​​​​​#AALBORG​

 

よっぽど幸せ?​

 

ユリナ 製薬会社勤務

 ​​ 

 新卒で働き始めた化粧品メーカーはサービス残業が当たり前で、しょっちゅう誰かが泣いていた。メンタルの不調で出社できない人、怒鳴ることが正しいと思っている人もいて結構しんどい毎日だった。社会をよく知らない当時の私は、それが普通で、みんな耐えながら生きているんだと思っていた。

 例にもれず、毎日、憂鬱な朝を迎えるようになった私は、通勤中の電車に流れるネットニュース「世界幸福度ランキング」に目を止めた。 前年の1位はデンマーク。残業はせず、多くは16時には帰宅する。年間で約5週間の有給休暇が付与され、取得率はほぼ100%。さらに、小学校から大学まで無料で通うことができ、大学生には返済不要の支援金が支給される。医療費や介護費も無料、年金制度も整っているから、老後の不安はほとんどない。

 そんな夢みたいな国が存在するなんて!と大衝撃を受け、デンマークは私の憧れの国になった。本当の幸せとは何か?という問いを常にもつようになった。 あれから10年。いま、私は憧れだったデンマークにいる。午前中は自宅で仕事をして、午後はカフェに行ったり、買い物をしたり、仕事終わりの友人に会うこともある。実際、外国人の私も医療費は無料だし、大学生の友人は「厳しい」と言いながらも、バイトはせずに日々を楽しんでいる。社会人の友人は、旅行や家を買うなどの目的以外で貯金はしていない。高福祉社会のデンマークでの生活に、出会ったほとんどの人がに満足していた。

 ただ、彼らが幸せかと問われると、私はイエスと答えられない気がする。 北欧の人はフレンドリーではないと聞いていたけど、どことなく冷たかったりして私が後ろ手に扉を開けて待っていても「ありがとう!(ニコっ)」がなかったり、バスの運転手さんに「おはよう!」と言っても無反応だったり、予約していた電車がキャンセルになったので、係の人に次の電車の状況を尋ねも「わからない」とあしらわれたりして、少し寂しさを感じる。 最近結婚した友人のサビーナは、同僚に「ほかの人が産休に入ったばっかりなんだから、やめてくれよ~」と嫌味を言われ、サビーナの夫・ヴィクターは教員免許をもっていても求人がまったくなく、半年職探しをしてようやく見つけたコールセンターのクレーム対応で、メンタルがズタボロになっている。かつてのルームメイト・リンは、試用期間の終了時に解雇され、落ち込んでいたが「よくあることよ」と言っていた。

 先日、デートしたマティアスに「なんでデンマークに来たの?」と聞かれた。「幸福度が高いデンマークの暮らしを知りたくて」と答えると「きみのほうが、どのデンマーク人よりもよっぽど幸せそうに見えるけど?」と返され、ガーナでの日々を思い出した。 教育や経済の安定以前に、命にかかわる水や公衆衛生整すら整っていないけれど、みんな幸せそうだった。24時間どこからともなく音楽が聴こえ、知人、友人関係なく、それに合わせて楽しそうに踊っていた。珍しいアジア人の私を見つけると微笑みかけてくれて「貧しいけれど、幸せ」と口をそろえて言っていた。

 未来の保障などないからこそ一日一日を最高に楽しむ人がいる一方、不幸にならない最低条件が整っていても、生活はシビアで、アルコールや薬物依存を抱える人もいる。私の人生の問いの答えはまだ見つからないけれど、自分の幸せを最優先事項として生きていいんだよ、って気づけたら、もっと生きやすいのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

​​​​#MACHIDA

 

プロとアマチュア

 

ZION 大学生・Webライター

 

​ 2024年10月28日、私が主宰するメンバーを固定しない音楽ユニット「Z-liquid」のワンマンライブが開催された。舞台は、今や私の主戦場ともいえる「LIVEHOUSE ODAWARA Quest」。約2時間にわたる公演の中で、ファンや知人、家族が口を揃えて高評価する人気曲「Light snowfall」、私が個人的に気に入っている「Left House」や「WORLD THROUGH YOUR EYES」、さらにライブ直前に配信された4th Album「非陳述記憶」の収録曲まで、アンコールを含めて23曲を演奏した。 見に来てくれた友人数名が終演後まで会場に残って私の晩飯に付き合ってくれたが、その中でも特に親しい友人が「一体何を食って育てばあんな曲が出来上がるのか…」と漏らした。そしてそんな彼の紹介で知り合ったもう一人の友人が、帰り際たまたま横を通り過ぎて行った私の父の背中を見て「あのカッコいいお父さんに育てられるとこうなるのか…」と呟いた。というのも私が作る曲は普段から「世界観が凄い」「個性的」「不親切」などと様々な批評を受けているのである。私自身は意識してそういうものを作ろうとしている訳ではなく、ただ自分が良いと思ったもの、ただ思いついたものを作り上げているだけであり、強いて言えば他のアーティストが作らないようなものを作りたいという気持ちが、小さく心の奥底で火を纏っているぐらいだ。それだけなのにここまで言われるのは何故なのか。もはや個性とか感性とか才能といった一言で終わらせてはいけない気がしたので改めて考えてみた。

 まず自分の音楽の作り方は、思いついたメロディーやバックサウンドに自分が納得できるかたちで曲として成立するまで肉付けしていく。ただそれだけである。この作業をもっと広い範囲までイメージ化してみると、「黙々とアトリエで自分が良いと思った作品を作り上げる」「一人で実験室に籠り、試薬を混ぜたり加熱したりして化学反応を観察している」といったものに近い。早い話が視聴者やファンのことを一切考えずに曲作りをしているのだ。一方、私が好き好んで聴いているプロのアーティストたちはどうやって曲作りをしているのか。インタビュー記事などを読む限り、おそらく彼らは常に視聴者やタイアップ先のことを考えて、それぞれ方向性こそ違えど他者に喜んでもらえたり共感を得られたりするような曲を意識して作っているのだろう。プロとアマチュアの境目がどんどんなくなっていくエンタメ・アート業界であるが、実はこの考えがあるかどうかがプロとアマチュアの決定的な違いなのかもしれない。だとすると私はまだまだアマチュアの域を抜け出せていないといえる。

 そしてその考え方は、エンタメ・アート以外のビジネスやサービスにも共通しているのではないかと最近気付いた。例えば飲食店は、お客さんに「美味しい」と思ってもらえる料理を提供するからこそ商売が成り立つはずだが、これがお客さんのことを何も考えずに好き放題料理を作って提供したらどうなるだろうか? きっと「不味い」「量が合わない」「バリエーションがない」と言われるような料理しか出来上がらないだろう。マッサージ師が客のことを考えてなかったら?「痛い」「弱い」「そこじゃない」と言われるマッサージ師になってしまうだろう。ビジネスもサービスも、顧客がいなければ成り立たない。だからこそ常に、顧客のことを考えなければいけない。アマチュアとプロの世界が曖昧になっている世界ならばなおさら、この考え方をもって人を喜ばせるものを作らないと生き残れないのかもしれない。ここまで私の文章を読んでくれたあなたはきっと「そんなの当たり前じゃん」と鼻で笑っているだろうが、私は生まれつき自己中心的な性格でサービス精神に欠けており、しかもろくにアルバイト等もせずに生きていたのでここまで気づかなかったのだ…。

 しかし、この考え方に気付いたもののそれはそれで新たな問題が生じる。ここからは新規のファンを獲得するべく、共感を得やすい曲を作るようにすべきか。それとも既存のファンを重んじて今の方向性を大事にするべきか。ビジネスやサービスを作るには「ペルソナ」を設定することでターゲットを明確化することが大事と聞くが、Z-liquidのペルソナってどんな人だ…?​​​​

 

 

 

 

 

#SEOUL

 

​To be, or not to be, that is the question.

 

呉 徳周 エンターテーメント会社勤務​​ 

 

 韓国に留まるか?日本に戻るか?それが問題だ。

 退職日が近づき、駐在員だった俺は社宅から出ていかねばならなかった。転職先も定まっていなかったので、ひとまずソウル市内で引っ越すことにした。 韓国には独特な賃貸形式・チョンセというものがある。ここ数年、チョンセ詐欺も多発し『賢い医師生活』シーズン1(2020)など、人気ドラマでもチョンセ詐欺を扱ったエピソードが多い。

 このチョンセ、要は入居時に一定の金額を家主に払うと家賃がタダになり、退去時に全額返納される、というものだ。家主はそのお金を運用する。と、ここまで聞くと何て素敵なシステム!と思いがちだが、その金額が、購入するのと大差ない額なのだ。つまり大金。 そこで銀行がチョンセ融資と銘打って貸します、となり、その分、借り手は金利を払うわけだが、ここで不思議な感覚が生まれる。チョンセ(借りた大金そのものをチョンセと呼ぶこともある)は俺の前を素通りし、そのまま家主に渡る。私がお金を借りたのに、手元を素通り。そして実態のない(ように思える)大金の金利だけ払ってる俺には金利が「家賃」になる。 さらに驚くのが、基本二年契約なのだが中途で解約や一部返金すると違約金が発生する。まるでスマホの契約しかり、銀行の二年パッケージ商品なのだ。 そんな人生初のチョンセ融資を受けるために某銀行に申し込んだところ、なんと不合格。日本など海外の永住権をもっている韓国人はIDカードに「在外国民」と書いてあるのだが、在外国民には融資できない、というのだ。 細かい説明は受けられなかったが「あなた、海外で稼いでるんでしょ? だったらその国で借りれば?」的なことだと俺的解釈。 IDカードの問い合わせ先に、在外国民の項目を削除する方法がないかと電話したが、方々でたらい回し。結論としては「永住権を放棄しなさい」ということだった。 祖父の頃から長い時間をかけて獲得した日本での「特別永住権」を簡単に手放せるわけないじゃん!とここは断念。

 しかし大金が絡んでるし、不動産の契約は締結済みなので後戻りできず、焦りまくって他の銀行にあたってみたところ…あっさり承認。ありがとう!〇〇銀行さん! うーむ、何事にもアップダウンの激しい国だ。 さて借主が変わると家主も退出する借主にチョンセを返納せねばならないが、そのお金が用意できない場合、次の借主からのチョンセでその穴を埋めねばならない。このやりとりがスリリングで、指定された日付のほぼ同時刻にそれぞれがスマホのアプリで送金する。(PayPayなどで数千万円を送るといった感じの簡単さに痺れる!)

 いくつかの障壁?を越えてようやく手に入れた新居。引っ越しはまだ先だが、部屋のレイアウトなどを想像すると夢広がるよね!と思ってた矢先に一通の電話。「オーさんを迎え入れる準備が整いました」その電話でおよそ十二年のソウル生活を終え、東京に戻ることになったのだった~!(またまた続く!のか?)​​​

 

 

 

 

 

#CHENNAI

 

インドの日常

 

​カーン 星 商社勤務​ 

 

 インドと日本の相性の悪さと言ったらないと思う。兎にも角にも悪い。世界トップのカオスを極めるインドと、世界トップの規律を重んじる日本。三度インドに住んで、計一年半程になるが、特にザ・昭和なJapanese Traditional Companyに勤めている今は最も色濃くそれを感じる。父はバングラデシュ人(インドの隣の国、ほぼインドと思って間違えはない)であり、ある種標準的な日本人の型から考えたら規格外であろう(言いたいことをすぐ言う、自己主張が強い、集団行動が嫌い等々)私といえど、日本生まれ日本育ちであり、根っこの部分は日本人である以上、インド生活においては受け入れがたい出来事が日々次々に起こっていく。新興国に住み慣れ、許容度が日本人のアベレージからしたらよほど広いであろう私の視点からですら、耐え難い程に街も施設も汚いし(そもそも「清潔」における価値基準が違う)、人は簡単に嘘をつくし(そもそも「嘘」の概念が違う)、時間も約束も全然守らないし(抑々「時間・約束」に対する捉え方が違う)、あまりにも話が通じないし(そもそも人生で必要とされる「能力」が違う)、様々な制度が全く整っておらず不便を極める一方、変なところで異常に細かくてことが進まないし(そもそも「法・規則」の機能・役割が違う)で、心の底からストレスパラダイスである。私でこれなのだから、大多数の日本人がそもそも行ってみようとすら(ましてや住んでみようと)思わないのもうなずける。ただ、これらのストレスの根源はインドが(あくまでも資本主義的な意味で)発展していないからではなく、日本という国に於ける「正しさ・美しさ」の基準との乖離で生まれているものであり、どちらが良い・悪いという訳ではない。その証拠に日本という国は清潔感・正確性・教育水準等々に於いて世界トップレベルを誇る規律そのものの様な国であり、住み心地良く、人も優しいが、同時に世界最悪のメンタルヘルス大国でもある。そりゃあんなに人の顔色ばかり伺って、自分の意思を殺して、よく人の話を聞いて、よく働ける金太郎飴たちが評価される様な規律の国なら仕方がない。いくら綺麗だろうが、いくら(義務教育の水準の高さからくる)学力平均値が異常に高かろうが、時間や約束を守る誠実さが培われようが、苦しくなって自分で自分を殺すような状況が溢れるくらいなら、インドのカオスの中でごちゃごちゃもまれながらも人と人とがくっついて幸せをはぐくんでいる方が良かろう。いや、私は日本大好きだし、日本になるべく住みたいけど。また、かくいうインドも最近は若い世代の自殺が社会問題になりつつあるらしいが。 そんなこんなで、私は日本のまさに真反対の価値基準をもったインドという国で暮らしている。5つ星ホテルのレジデンスに住んでいても、冷凍庫が壊れるのは今日で優に二十回は超えるし(マネージャーは何度も取り換えたと言っているが多分嘘)、先週行ったバーは注文の30分後に注文したものは品切れと言い出すし(三回位確認してやっとわかった)、空港のトイレ全体が便器の中の水をすくって掃除されているし(トイレ掃除のおばさんが三人常駐しているのだからもっと綺麗にならないものか)、街のクラクションのうるささで目を覚ますし(私の地元・北九州バリのクラクションの鳴らし方をする地域がここにあったのね)、職場では数週間前が〆切の仕事の状況を聞けば2分後に出すと言うし(そしてその後、タスクの内容を聞いてくる、2分後に本当に資料は出来上がるのか。信じてみようか)、小さな事件で溢れて、渦巻いております。

 

 

 

 

​​​​#KYOTO​

 

シブヤオールドニュース

 

​伊勢華子 本誌発行人​ 

 

 原稿を書いてもらえないかとお願いして、断られたことが一度ある。

 まさにこの新聞13F OLDNWESでのことなのだけれど、断りの主のHさんから「ご勘弁を!」と言われたときは、その見事な断りっぷりに清々しさを覚えた。

 渋谷発のこの新聞で、Hさんに書いてもらいたいとつねづね思っていたのは、あんなに渋谷でビールを飲んでいたのに、ある日「渋谷が嫌い」と言ったからだ。

 Hさんと会うときは、決まって道玄坂のアイリッシュパブだった。テラス席を陽のあるうちから陣取って道ゆく人を眺めながら、生ぬるい1パウンドジョッキをちびちび飲んではフィッシュ&チップスをつまんだ。縄文の食文化やブナ帯の魅力、TV好きなHさんの録画番組の近況、欠かさず聴いている清水みちこさんの深夜ラジオ番組、田園調布に家をもつに至った家族の話、建築の話や洋服の話、今日も終電ぎりぎり!となって、居合わせた人のなかには慌てて帰り支度をする人もいるほど話は尽きなかった。

 Hさんは大学卒業後、ロッテルダムやパリの建築事務所に勤務したものの、建築以上に食べることばかり考えていることに気づき、帰国後、日本初であったに違いないパテやテリーヌの店を家の一角に開いた。半世紀を超えて、今も愛されている店のひとつだ。 私はHさんの家でもよくビールをご馳走になった。仕込みが忙しいHさんは冷えたグラスとビールだけ手渡すと「ちょっと飲んで待っていて」と、キッチンに戻っていくこともあった。それでも店が終わるとビールや赤ワインを開けて、夕飯をゆっくりと食べた。ブロッコリーは手でちぎるに限るとか、豚肉の薄切りは一枚ずつばらばらにしてしまわず塊にして鍋に入れたほうが美味しいとか、日常こそスリリングでやりがいのある現場だということ私は気づけば身につけさせてもらっていた。

 Hさんは「ご勘弁を!」と返事をくれた際、代わりに、と言って寄せてくれた言葉がある。私はその言葉を自分なりに記憶し口ずさむことができる。

 

うれしいお誘いを、ありがとうございます。

例のブナ帯のことで、相変わらずバタバタしており、

3月一杯は、手がつけられそうにありません。

と云いながら少々‥‥

華子さんが住まわれ、この「新聞」とも関わりができているようなので、

いまの渋谷計画について、

先日なくなった建築家の磯崎新氏の”廃墟の未来都市”のスケッチを渋谷に重ねている、

などと書くわけにはいきませんしネ。

草木におおわれた緑の盆地の底にシブヤ川が流れている景色を、

青山、代官山など周りの尾根から見はるかす。

そんな渋谷を夢想しているものの一人です。

戦後しばらくの六本木はやはり、

今は高いビルに挟まれ、せまく感じる外苑東通りを尾根筋として、

周りを遥かに見下ろすことができ、

バラックが埃っぽい焼け跡の道に数個ポツンポツンと立っている通りから

下の方に空襲を免れた国会議事堂だけが見えていました。

学校の屋上からは、海も。

そういえば六本木は港区なのですね。

そんなことで、今日のところはご勘弁を。ところでビール!! 

365日欠かさず飲んでいます。今度、是非、ご一緒しましょう!!

 

 冬の午後。いつものようにアイリッシュパブのテラス席でHさんを待っていると「暑い、暑い」とぐるぐる巻きのマフラーを外しながらHさんがやってきた。息も切れているので、どうしたのかと尋ねると、渋谷に来るのはいいが、迷路のようになった渋谷が好きになれないらしく、何とかして渋谷駅を通らず、電車でここまで辿り着けないかと考えたあげく、田園都市線で渋谷を通り過ぎて表参道までいき、そこから宮益坂を下り、てくてくここまで歩いてきたと言うのだった。

 はじめてH邸に遊びにいった日も、渋谷からなら自由が丘、もしくはひとつ先の田園調布から歩くのがスピーディだったが、さらにひとつ先の多摩川駅で待ち合わせ、そこから古墳群を通り、緩やかな傾斜を上っては下がり、さらに寄り道してなじみの焼き鳥屋さんやパブの前を通るなど、歩きに歩いて到着したのでさほど驚かなかったが、Hさんと渋谷でビールを飲んだのはこの日が最後となった。

 廃墟。世界の何十という都市を歩いた中でも心に残る場所だけれど、日々いる渋谷に遠いはずの言葉を投げかけられてぎくりとし、まさか! と押し戻そうとする。

 文化村通りで、大きな空を見る。ああ、ここは東急本店があった場所。その空の大きさに、私がよく昼のお弁当を買っっていた場所は私が思っていたよりずっと大きかったことを知る。働いていた人も、労力を注いでいた人も私が知るよりもずっと多いはずだ。

 多様な文化で賑わい、さまざまな言語がかしこで飛び交う。ファストフード店でランチをする人がいて、温水プールで泳ぎ、広場でおしゃべりをする人がいる。劇場で歓喜し、高級輸入食材を買って自宅で楽しむ人たちがいる。一夜にしてその街が消えたことは史実だが、書いてはいけないことなどなく、あの日重ねたスケッチ、届いた言葉はいつかどこかで蕾となる。

 

 

 

 

 

​​​#HIGASHIMURAYAMA

 

四季折々

 

金子 恵 イラストレーター

 

 ひときわ暑くて ながい夏だった。

 早朝から陽射しがつよく、日が暮れてもアスファルトの熱が冷めないから、散歩へ出かける時間帯が悩ましく、困った。

 秋といわれる季節になってからも、樹々の葉は青々としてなかなか染まらない。

 それからようやく樹々の葉が色づき「きれいだなあ」と見あげるころには、ウールのコートが手ばなせなくなっていた。

 犬と連れだっていく公園は、晩秋になるとたくさんの落ち葉が敷きつめられたようになる。

 歩くと、ガサガサと乾いた音がする。

 そこに鼻をつっこみ、盛大に音をたてて歩くのが何よりも犬のたのしみなのだ。

 春には桜の花が咲き、たんぽぽ、シロツメクサ、ほかにも名前を知らないたくさんの草花がぎゅうぎゅうになって地面をおおう。

 春から夏の青々とした草のにおい。

 秋のどんぐりや枯葉がころがる音。

 冬のつめたい北風と乾いた土のにおい。

 どんな季節も犬は地面にくぎづけで、においを嗅ぐのに余念がない。

 いつしかわたしも下を向いて歩くようになった。(地面にはいつもいろいろなものが落ちている)

 もうすこししたら、また、春がくる。

 

 

 

 

 

編集後記

 

中上健次が頑固に履き替えることもせずボロボロになるまで履きつづけた靴は、結果として五十年を歩いた紀州の泥靴になった。靴の寿命と似たように、自分で自分の命に線を引き、そこに向かって脇目もふらず走った作家であった。人が決められた寿命に寄りそいながら記す文は、それだけで不思議な色気が立つ。文の輝きとは、そんなものかもしれない。日没があらかじめ決まっているから、落暉も美しくもなることができる。私が遠避けていた紀州が目と鼻の先に迫っている。  

 

 緒方修一 本誌編集長

AALBORG

​​141-11 Koderamachi, kamigyo-ku KYOTO Google map ]​​

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