笑って前を向いて 握手はできない

     孤塁 #007

     

     

     

    「あ、洗濯物取り込まなきゃ。雨が降ってきから。じゃあね!」

     その言葉を最後に電話は切られる。

     健康な食べ物や社会にまつわる長い電話でのやりとりが途切れる瞬間じっと待ちながら、仕事の依頼を切り出す機会をうかがっていても、相手はすぐに気づいてしまう。敏感なアンテナは衰えることを知らない。仕事を断られることに馴れていないという自分の未熟さもあるが、会話がシャットアウトされる理由が洗濯物では散々な結末と言える。

     まえのまりさんほど、絵の依頼が思い通りに運ばない人はいなかった。

     彼女にとって本は自分を高めるための階段のようなもの。気分を高揚させるだけの創作には敵意すら持っているように見えた。絵画やボブ・ディランと同じくらい本も愛していたが次々に何冊というより、これと決めた本をくり返し読み込むタイプだった。広さより深さを求める姿勢はキャンバスへ向かう時と一貫していた。

     まりさんに仕事を頼むとなると私はゲラを選んで、さらに絵を描いてくれるよう説得するために、まりさんの蔵書をヒントにして言葉を吟味しながら打ち合わせに臨まなければならなかった。それでも本人と対峙してみると「まえのまり」という壁は、しょせん商業出版の手先でしかない私を拒絶することが多かった。絵筆を取ってもらうための希望の光は見えなかったが、まりさんが毎日、新聞を隅から隅まで目を通していて、さらに読書家(とても偏った)であった事が、私たちが町屋の喫茶店カラビナの席から立つことを引き延ばした。

     次の依頼は期間の決まっていない月刊雑誌の表紙の絵であった。

     「今の緒方君にとって、この仕事は抱えている物の何番目に大切なの?」

     難しい問いかけに私は言葉に詰まりかけた。突然な積極的な発言に面食らった私は

    「下から二番目くらいですかね」と答えた。

     まりさんの言葉には体のコンディションの不安、その深刻さがうかがえた。まりさんの絵描きとしての焦りを感じて、私も真似して〈急ぐ〉ことにした。手法を選ばずに何度もハガキを出した。もはや仕事などどうでもよかった。まりさんを喜ばせ揺るがすような原稿もそれを書ける人もどこにも見当たらなかった。

     私の中には冷酷な装置があって、目の前にいる人が風邪気味だったり忙しかったり、つまり何かの渦中にあったとしても、こと仕事であれば一切それを無視することができる。まりさんの病の事も、繰り返された手術の経過も聞いてはいたが、一枚の絵を描く事のほうを簡単に優先させてしまう。

     

     ある日、カラビナで私はこう切り出した。

    「まえのさん、表紙の絵の件ですが、もし描けなくなったら。…すぐ次の人を探してお願いするから」

     私の本心からの言葉を待っていたかのように、

    「……うん。…実は五枚描いてあって。見せられないのもあるから三枚。今度見てくれる?」と答えた。

     帰り道、二人で歩道を駅の方に向かって進みながら

    「どうして緒方君は私に雨粒を落としたの?」とまりさんがぽつりと言った。

     私は素っ気なく「…落とすのが遅すぎた。そう思えばいいですか?」と答えた。

     別れ際、私たちは町屋の駅前で笑顔で握手をした。女性から握手を求められたのは、その時が初めてだった。私はじっと彼女の冷たい指を見つめていた。その時、まりさんは私を真っ直ぐ見てくれているような気がした。私もそれに答えたかったが、どんな表情も作ることができなかった。前を向くことができない私の心に、近い将来、まりさんが目の前から消えてしまう。そんなイメージが急に溢れてきた。ひたすらまりさんの手を振り続けるしかなかった。

     

      途中どころか二年分の絵を描き遺してまりさんは逝ってしまった。

     確かに絵の依頼は、洗濯物に降る雨粒にどこか似ているかもしれない。それは些細なことに見えて、同時に取り返しのつかないダメージを人に与えてしまう怖さもどこかにある。了

     

    *「孤塁」こるい【korui】一つだけ残って助けが来る事もない砦。

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