物語のあとさき

    BookLOG #004

     

     仕事でゲラは読むが物語を深く追うことはない。本を作る側として展開や結末に入れ込まないのは染み着いた習性で、たとえ結末を読んでしまっても、仕事になったら頭の中でバッサリと切り捨てる。

     捨てても片隅に記憶が残るだろうと言われるが、どういうわけか忘れる事ができる。顛末よりも質感が知りたいために読んでいるようなものだ。自分としてはある意味致命的だと思うが、物語に重きのある原稿である場合、私はそれを十分に理解できないかもしれない。
     本や映画や舞台には必ず終わりがある。しかしプロローグからエピローグまでの限られた情報や時間がそのものとは言えない気がする。幕が上がって下りる。その前後にも物語を私たちは感じとることができる。

     読書感想などのフレーズでしばしば出てくる〈読後感〉という言葉。それが本当に存在してその価値を本に含めるならば、目で追える活字が途絶えてしまっても本はまだ終わっていないことになる。
     私の興味はその〈あとさき〉にある。原稿には書かれていない世界である。泡のようにすぐに消えるのでなく永遠に継続する〈読後感〉。それに人の琴線に触れる〈読前感〉。この二つを目指そうとする装丁家は欲張りすぎであろうか。
     小説の舞台は1992年に解体された台湾の中華商場。今で言えばイオンモールみたいなもの。その三階建八棟の建物にそれぞれ忠、考、仁、愛、信、義、和、平という名がついている。その愛と仁をつなぐ歩道橋で物語は進む。主人公の少年はそこで商売をし、実際魔術師とも出会う。記憶歴史光景。揃っている素材たちに作家は目もくれない。物語は人が持つ心の隙へ隙へと読む者を導く。作家という名の化け物の存在を見せつける小説の〈あとさき〉には、小説であることの必然性が充満している。了

     

     

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