GOODS
白水社のエクス・リブリスが
刊行十周年記念に作った冊子のロゴを提供。
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移民たち
W.G.ゼーバルト 白水社
AUSTERLITZ
アウステルリッツ
W.G.ゼーバルト 幻戯書房
AUSTERLITZ
星をつなぐために
沢木耕太郎 岩波書店
KOUTARO SAWAKI SESSIONS 4
装画 桑原紗織
家風を盗んだ男
善渡爾宗衛 杉山淳/編 幻戯書房
THE MAN WHO STOLE KAFU
装画 タダジュン
家風を盗んだ男
善渡爾宗衛 杉山淳/編 幻戯書房
THE MAN WHO STOLE KAFU
装画 タダジュン
家風を盗んだ男
善渡爾宗衛 杉山淳/編 幻戯書房
THE MAN WHO STOLE KAFU
装画 タダジュン
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バングラデシュの隣にて
カーン 星 商社勤務
インド南部の港町チェンナイにて。私の手のひらにあるスマートフォンの中で、国が揺れていた。 学生の暴動・デモ、数百名に及ぶ死者、警察との衝突、放火、道路の封鎖、政府による外出禁止令、囚人収容所からの脱走、そして首相の辞任と他国への亡命、警察のボイコット、仮の軍事政権の成立というニュースが次々と伝えられた。
父の母国バングラデシュは確かに新興国で、政治も経済もまだ安定しているとは言い難いが、こんな事態を見るのは初めてだった。
7月19日、国が激しく揺れたまさにその日、私はバングラデシュに大切な人たちに会いに行く予定だった。朝、スマートフォンが小さく震え、見知らぬ電話番号からの着信があった。恐る恐る電話に出ると、ぼやけた声で「俺だよ」と聞こえた。彼からだった。「政府がネットを遮断した。住んでいるエリアは封鎖された」手短に彼は言った。2日ほど前から暴動が起きていることは聞いていたし、父には「お願いだから今はバングラデシュに行かないでくれ」と言われていた。それでも、私はどうしても行こうとしていた。必死の思いだった。しかし今、ネットが遮断され、道路も街も封鎖されてしまい、バングラデシュに行ったところで、彼にも、大切な人たちにも会えないことが分かった。
その後の約3週間は、日々増える死者数と変動する暴動の様子をスマートフォンで何度も確認しては、落ち込んだり、安堵したりと、心の休まらない日々が続いた。とにかく無事でいてほしいと願うばかりだった。(現地に住む親戚や姉、友人たちは意外にも平気だとけろりとしていたが)
バングラデシュは私が生まれたとき、世界最貧国の一つだった。それが今や、国は「アジアの虎」となり、数年後には中所得国の仲間入りをすると言われている。わかりやすく言えば、インドが次なる中国なら、バングラデシュは次なるタイになるような国だ。
1971年に独立したばかりの若い国、バングラデシュは肥沃な大地を持ち、豊かな文化を有しているが、たった一度の洪水で国が水浸しになり、政治も経済も長らく安定せず、貧困にあえいできた。しかしここ10年ほどで、繊維業を起点に国は成長を続けてきた。この背景には、(つい先日、国の暴動により辞任し、インドに亡命)ハシナ首相が率いる政権の統制があった。
しかし、15年以上にわたる長期政権の末、政治の腐敗や他の新興国が抱える問題が原因で、多くの人々が取り残され続けた。国が成長する中で、「産め、産め」と多くの子供たちが生まれた。国の平均年齢は25歳で、20代以下が6割を超える。だが、国はそれに見合う資金や職を提供できず、将来の希望を見出せない若者たちは家に留まるしかない。根深い貧困の中、スラムや道端、とたん屋根の下で苦しむ若者たち。バングラデシュでは今にも暴発しそうだと、若者をはじめ、国民の鬱憤が町のそこかしこで沸き上がり、細く高く立ち上る煙がそれを象徴していた。
今回、その鬱憤がパンとはじけた。
学生たちが声を上げ、民衆がそれに追随し、溢れる若いエネルギーを政権に向けて突き進んだ。そしてついに政権を倒してしまった。バングラデシュの国民はこれを腐敗した政権に対する勝利だと言うけれど、私はそうは思わない。これは彼らの溢れたエネルギーの結果に過ぎないのではないかとさえ思っている。
本当に今回の暴動が多くの犠牲を生み、これからの政治・経済を大きく停滞させるほどの価値があったのだろうか? それともこれからその価値が見出されるのだろうか?
バングラデシュ人の父と日本人の母をもつ私は、いろんな巡り合わせで今、インドは南、チェンナイで働いている。インドだって、いつ揺れて、噴き出して、倒れてしまうかわからない。そんな不安定な状況の中で、今も生きている。インドの隣にある、私の半分をくれた国は今もまだ揺れていて、溢れるエネルギーをどこに向ければいいのかとやや興奮気味の若者たちで溢れている。
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憎らしくも、愛すべき街
呉 徳周 エンターテーメント会社勤務
出張で頻繁に訪れていたソウルだったが、正式な赴任となりアパートを借りた。正確には、アパートではなく“オフィステル”を借りた。オフィス+ホテル? 何のこと?
韓国にはマンションという言葉はなく、アパート(高層マンション)、ヴィラ(低層マンション)、オフィステルなどに区分されるが、なかでも“オフィステル”は謎だらけだった。
あるサイトによれば「オフィステルは、オフィスとホテルを合わせた意味で、住宅街ではなく、商業施設が集まる場所に位置するため、通学通勤に便利なのが特徴」とあった。確かに事務所で使ってる部屋も多く、冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ等、家具や家電付きのところがほとんどで、すぐ住む、すぐ引っ越す、短期利用者にはうってつけ。
そんな俺もソウル赴任は長くて1年と考えていた。
が、気がつけば11年半が経っていた。
変化が早いソウル。赴任したころが遠い昔に思える。
何といっても円が安くなり、韓国の物価が上がった。
赴任時は100円が1,400ウォン。タクシーの初乗り、チャミスルに代表される韓国焼酎は1本3,000ウォン(200円強)しなかった。いくら飲んでも一人焼酎2本で酩酊。5本飲んでも千円程度。手頃なサムギョプサル屋で後輩たちをもてなしても円に換算すれば大したことない。当時の俺の先輩風は“暴風”で、後輩たちも喜んで吹き飛ばされていた。それが今や100円が900ウォン。焼酎も1本5,000ウォン(約600円)をくだらない。円で考えると物価は2~3倍。韓国は安くて手頃な国から、それなりに物価の高い国に変わった。
空気が悪くなり、蒸し暑くもなった。
かといって冬は変わらず極寒で、漢江も凍る。空気の悪さは如実で、天気予報には“微細粉塵(ミセモンジ·PM10/PM2.5)”なるものまで登場。青空を目撃できる日は少なく、東京出張に行くと「嗚呼、空が青い」と感動する。日本の夏に必需品の汗拭きシートを暑くても日陰はカラッとする韓国で使うことはなかったが、今では必需品。とにかく湿度が高く、強烈な豪雨が前触れもなく降るようになった。名ばかりだった「潜水橋」が潜水する日も年数回あるほどだ。夏は猛暑猛暑で、もうしょうがないのでR。
趣味も多様化した。それまで趣味といえばゴルフか登山だった。今もそれは変わらないが、選択肢が増えた。
人口5000万の韓国。ソウル近郊に2000万人以上が暮らす首都集中型社会。勝ち負けがはっきりしていて、分野問わずシェア1位と2位の差が著しかったが、マラソン、テニス、サイクリング、サーフィン….と多様化している。
そして、空前の日本ブームがやってきた。日本流行りはこれまでもあったが、一気に質が上がった。
流行の最先端をいくソンスやホンデ、アックジョンロデオには、ここは日本かと思うほどの街並みが広がる。看板も以前の“なんちゃって”ではない。日本風ではなく日本そのもの。なかには日本で出会うことのないフュージョン的なものもあり、どれもクオリティが高い。
コロナ禍に起きた変化なのか、日本カルチャー(特にはアニメと食)の影響をダイレクトに受けた消費欲の高いMZ世代に刺さっている。昨今の日本でのKカルチャーの盛り上がりをみても、日韓の新しい関係を期待してみたりする。
当の俺は、40代だったが50代になった。韓国語は上達しなかったが、韓国語での態度は堂々としてきた。韓国社会に馴染みつつ、在日コリアンへの知識と理解のなさに辟易した。(が、それは友人、知人たちのせいではない) サバイブ方法をそれなりに身につけた。逆に日本への理解を深めた。そして… … この秋、会社を辞めた。
14年勤めた会社。その間、11年半はソウルにいた。日本で生まれ、40年暮らした。二つの国は、祖国だったり、故郷だったり、異国だったり、疎外されたり、誤解されたり、好きでもあり、憎らしい国だけど、どちらも愛すべき“俺の街”だ。
さあ、今日から俺は!… (次回に続く?!)
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Tシャツ299
山本洋平 自動車開発者
今年こそはと、お盆休みは部屋の片づけに終始した。レコード、CD、建築雑誌、楽譜、アートや小説などの本、服。どれも自分が憧れてきた世界の記録物だが、とにかくモノが多く一度整理したいと思っていた。
でもすぐに、お盆休みだけでは足りなことは理解できた。40半ばにもなると、たまった量も半端なく、その集積量に改めて驚く。
一気に片づけることは無理ということで、まずはクローゼットを整理することにした。メタルフェス(LOUDPARK 2016 )で買った70年代から活躍するアメリカのRIOTのJOHNNY君Tシャツをはじめ、何かと記念に集めたTシャツが目につく。かき集めるとすぐひと山できた。
バンド関連のTシャツが7割だが、僕の好きなヘヴィーメタルのジャンルでは、己の敬愛するミュージシャン、バンドのTシャツは正装。それらはライブに行く記念のタイミングで、さらに追加購入するので、一枚一枚に当時の雰囲気やセットリストが克明に、脳の奥から引き出される。
気づけば夜になっていた。このままではいけないと、音楽のジャンルごとにTシャツを整理するが、感慨深く想い出に浸る時間となり、どうにもクローゼットは片付かない。全部数えてみると、299枚のTシャツがあった。
イチローがマリーンズに在籍していたころ、毎日違うTシャツを着て話題になっていたことを思い出し、妻に「365枚あったら毎日違うTシャツ着れるね!」と冗談半分で話したが、夫婦関係を極寒にまで下げただけだった。この日の名古屋の気温は38度であったが‥‥。
しかし299という数字は、何かの啓示にも思える。あと一枚で300の大台。「捨てなさい」という妻の無言ながら重く響いてくるメッセージと、「さらに進め!」という己の心の声のどちらを選ぶべきか。
どちらも選べないでいると、インターフォンが鳴った。
「お届け物です!」
なんだろう。小包を開けてみると、それはラジオのメタル番組から届いた懸賞Tシャツだった。
僕はTシャツを再び丁寧にたたみ、思い出とともにクローゼットに閉まった。
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食卓での会話
芹澤絵美 ヴァイン・グローワー
この国は暮らしやすい。ほぼノーストレスといっていい。
ストレスのほとんどは人間関係から発生すると聞くけれど、このノーストレスに近いニュージーランドでさえ、完璧な人間関係など存在しない。
極論かもしれないが、素晴らしい関係を築いても無意識にそこに欠点を探そうとする性質をもともと人はもっているのかもしれない。少なくとも私の中にはある。
善意を前面に出されると、むしろその人の闇を探そうと観察してしまう。優しく、良い人であろうと努力している人を見ると、いつかキレるのではないかと想像してしまい怖い。逆にワガママや悪質な部分を躊躇なくぶつけてくる人に出会うと、その人の底が見えて安心する。もしかしてこの人の中にも良い部分があるのかもと期待すらする。
ニュージーランドは移民の国で、最初にマオリが住み始め、現在はイギリス系の白人が人口の多くを占める。郷に入っては郷に従えという諺にならって、なるべくこの国の風習に馴染むように暮らしているが「この国って、こういうところがケチだよね。こういうところが日本ではありえないよね」というのが食卓の話題によくのぼる。
それがネガティブな方向に傾くと私の場合は、大昔に侵略の限りを尽くし、アフリカ大陸から黒人をさらってきては奴隷にした歴史を思い出してしまう。”自分は悪くない”という態度をされると、目の前のその人自身がしたことではないとわかっていても、自分たちの祖先がしたことを恥じることもなく、むしろ勝利し続けたことを誇りに思っているのではないかと、ムカつきを通りこして、その思考回路に感銘すらしてしまう。
予約でいっぱいのレストランのシェフが突然休んでも、店側は悪びれもせず「シェフが来なかったので、今日はピザしか出せません。でも幸いなことに、うちのピザはどれも絶品です」とにこやかに言ったり、片側一車線の道路で車を寄せもせずに停車させて知り合いの歩行者と長々と話し込んだり、レジにお客が長蛇の列を作っていても、レジ係が手を止めてお客さんと笑い話に花を咲かせたり、周囲の目を全く気にしない。
個人だけでなく大手企業でも、始めたばかりのポイントサービスのルールを予告なしで変更し、消費者が貯めたポイントを水の泡にしたり、購入した航空券をキャンセルしたら”クレジット”という名目で自社でプールし、返金しないばかりか「クレジットにしておいてあげたよ」という姿勢。テレビCMも「こんなに安いよ!」と大キャンペーンを展開したかと思いきや、中身はお得どころか損だったりする。
「ケチ! 図太い!」と言い出すい人がいてもおかしくないが、カスタマーハラスメントは存在しない。尊大な態度を取るお客はいるだろうが、それに低姿勢で対応することも皆無だからだ。
お互いにちょっと譲って少しの理解を示せばほとんどの問題は解決するし、しつこく追求しない。そんな日本特有の陰湿な部分はほぼない。そこは素敵だ。
感情を剥き出しにすることを避ける傾向があるようにも思う。
表だって誰かを批判したり、腹を立てたり、大声を出して言い合ったりすることは品性に欠ける、という何か独特なマナーがある。大規模リストラがあると、リストラされなかった人たちがお別れセレモニーを企画して満面の笑顔で解雇された人たちを送り出したりするけれど、未だどういうメンタルなのか理解出来ない。なので腹を割って話す、本音で語る、ということが私はしづらい。相手がナイスであればナイスなほど、腹の底で何を考えているか分からず、どこまで信用して話をすればいいのか? 信頼関係はどうやって築けばいいのか? 距離感に戸惑う。
日本でも信頼していた相手に裏切られることはあるけれど、その前に不機嫌さを表に出すので、その人の底が見えやすい。一方こちらでは、底が見えそうで見えない綺麗な泉のような人を前にしているようで、不用意に足を踏み入れたら泉の底にワニがいて痛い目に合うかもしれないと警戒してしまう。そんな感覚が、この国の人間関係にはある。
相手から競争心という牙を抜く方法にも長けている。
日本では良い大学を出て、良い企業に就職しなさいという風潮があるが、そういう競争心を煽る教育を美徳としないところがあって、子どもを育てるのには豊かな社会に感じるけれど、大人になって生活苦にあえぐのは無学な人たちなのは変わらない。だから表面的には競争を否定しながら、家庭では競争に勝てるよう子どもに教える。そのダブルスタンダードを正当化するのも上手。
日本には公明正大であることを美徳とする文化があり、社会そのものも機能してきたし、国際社会で高く評価されることもある。でも技術力では勝てるが、ルール変更を鮮やかにやってのけるビジネスセンスに秀でないため国際競争力が低い。
そもそも勝つ必要はあるのか? 勝つってなんだろう?
競争心は相手を負かす意欲を育てる。相手を負かす行為は、侵略行為とメンタルが根源的に近い。だから平和的でありたければ、競争心を捨てる必要がある。でも生きていくことそのものが競争な場合もある。
地球上全ての人が利他的なら競争は生まれないが、ほんの少数でも利己的な人がいたら平等や平和は機能しない。負者が勝者の提示する条件に従う社会システム、金融システム、生活システム。こうした一見平和で、善意や優しい嘘に溢れたゲームの戦略にも長けていて「勝つ必要なんてないのよ、あなたはそのままでとても魅力的だし才能があるのだから」と、突然こちらを褒めて幕引きし、その場を有利に収めるテクニックをもっている。とても洗練されていて、手強い。
白人社会で暮らしていると、ある種の悔しさと感銘が入り交じった複雑な感情が湧き上がる。こうやってモヤモヤして「ズルイ!」と思いながらこの国で暮らしているが、良く言えば柔軟、悪く言えばチート(私にはそう見える)な国民性には確かに学ぶことが沢山あるのは確かだからだ。
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親というもの
伊藤美奈子 自由業
パリで毎年7月に開催されるジャパンエキスポに、今年も出店した。オリンピックを前に何もかも値上がりしたことで、パリの人々のなかには早々にパリから逃げてしまった人もいて、来場者数は例年の30%減となった。売上こそ10%減に留まったものの、ブースによっては50%近く減少したところもあった。
仕事にならないし、道路はあちこち封鎖。バスや地下鉄の切符は3倍に値上がり。どこへ行くのもとにかく大変。世界の祭典・オリンピックとはいえ、開会式もまともに観れそうにないし、どの競技も高額なチケット買わなければ観れない。ホテルは高すぎて、結局、空室もあったみたいだけれど。開会式前にパリを出よう、混乱に巻き込まれたくない。そんな理由で、私もパリから逃げだすべく、早々に飛行機に乗った。
久しぶりの日本。
友だちと再会するなかで、ずいぶん減ったと思っていた教育ママというものが未だ健在なことに気づいた。
子どもが特殊な才能をもっていたり、優れた才能があるとわかると、一躍有名にしたいという願いから、肝心の子どもの人格を尊重することを忘れてしまう。一流の先生をつけて、毎日厳しく練習をさせて、友だちと遊びも行かせない。
この世に生まれ落ちたときからひとりの人間として尊重されるべきなのに、手取り足取り子育てをしているうちに、忘れてしまうのかな。うちの子はすごいのだ、というエゴからなのか。自分の分身のようなものだからと勘違いするのかな。
ある日、Netflixで“爽子ちゃん”(『君に届け』)を観ていた私は、ちょうど自分が子離れができそうなタイミングだったこともあり、よし、そうだよね!と、後押しをもらった。
一人娘のおとなしい爽子ちゃんがクラスの人気者の男子といい感じになる話で、みんなでクリスマス会をするのに誘われたのに、両親にそんなのありえないって、家族3人でクリスマスを祝うことになるのだけれど、爽子ちゃんはすごく悲しそうで。同じく一人娘をもつ私は、子どもの世界の楽しみを親の都合で奪うのはダメだと痛感した。
親はつい、子どものためにとっている行動だと信じてしまいがちだ。それで、子どもの人生が上手くいくこともあるだろうが、不幸にしてしまうことだってある。でも案外子どもは強いから大丈夫だったりする。反面教師でいい勉強になってるのかもって思うこともある。
日常を取り戻したパリに戻る日が近づいてきた。
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#MITO
サプリメントの罠
Nozzy メーカー勤務
一般的な傾向に反して、アメリカから帰任して日本暮らしになった途端、3kg太った。
なにしろ、何を食べても美味しいし安いから、三食たくさん食べてしまうのだ。アメリカでほぼ自炊だった食生活に対して、完全にカロリーオーバーだ。それに加えて、引越しの忙しさで運動不足な上に、送別会と歓迎会の嵐で毎晩のように飲み会が続いたのも良くない。
結果、帰国後検診の結果は惨憺たるものであった。体重の増加だけでなく、悪玉コレステロール、中性脂肪、尿酸値が基準値超え。要再検査となってしまった。
しかし、この異常状態での検査結果なので、これで私の健康状態を断じられるのはアンフェアだ。なんとしても再検査までに、この冤罪を証明したい。そう、これは名誉をかけた戦いなのだ。
まずは、食事制限。過去、今より10kg痩せた実績のあるレコーディングダイエットを始める。夜の飲み会に備え、昼ごはんはサラダとサラダチキンという、ボディビルダーのような食事に変えた。ただ、これは長期的には効果があるものの、急激な数値改善は期待できない。そこで、手を出したのはサプリメントである。コレステロール、中性脂肪、尿酸値を下げるサプリを飲み始める。それに加えて、血中に溶け出した脂肪を効率よくエネルギーに変えるために、ミトコンドリアを育てるサプリを導入。これでまず、強制的に数値を下げようという作戦だ。
さらに、運動不足を解決するために、毎日のジョギング、ウォーキング、ジム通いを始める。これが一番効く。元々フルマラソンも走るので、運動自体は苦にはならない。ただ、加齢とともに筋肉がつきにくくなったからか、運動後の回復が遅い。これではなかなか運動強度が上がらないので、対策が必要だ。そこでさらにサプリに手を出す。男性ホルモンを増やすテストステロン、成長ホルモンの分泌を促すアルギニン、筋肉のつきを良くするHMB、回復を早くするBCAA、脂肪酸をエネルギーに変えるカルニチン、エネルギー生成を助けてくれるクレアチンをサプリで摂取する。これで、走る量や筋トレの強度もあげられる。
こうして万全の対策を行った結果、飲むサプリが大量となってしまった。サプリでお腹いっぱいになるレベルだ。運動強化用だけで12粒もある。なにより、どれを何粒飲むか覚えるだけで一苦労だ。
やむを得ないと飲むサプリの厳選を行うためにAmazonを眺めていたところ、マルチ成分サプリなるものを発見した。運動強化用の成分が概ね全てカバーされている。これでサプリの量問題は一挙解決だ!と喜び勇んで注文した。
届いたサプリが大きな袋に入っているのを見て、嫌な予感がした。用量を見たら、1日20粒と書いてあった。
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犬と暮らす
金子 恵 イラストレーター
八年目に犬をなくした。
ふわふわした白い毛で、両腕にかかえられるくらいの、小柄な犬だった。
内弁慶で、むかい側から犬が歩いてくるとふるえて立ちどまった。ふるえながらこまった様子でわたしを見あげ、まぶしそうに目を細める。
通りすぎるのをいっしょに待った。
生きられたはずの犬の時間を、いくつかの不運が重なり、短いものにしてしまった。
なくした犬をおもいだすと涙がこぼれおちそうになる。
あたらしい犬をむかえることはできないと思っていた。
時間がたち、おおきな公園のある街にすむようになると、犬を連れた人をよく見かけるようになった。
出かけるたび犬たちを目で追ってしまう。
もういちど、犬をむかえることを、決意した。
週末の晴れた日、犬をむかえにいくため電車に乗った。
キャリーバッグに白い綿毛の仔犬を入れると、鼻を鳴らし、とつぜん狭い場所へ入れられたことを憤慨している様子だった。バッグの底に敷いたタオルをむしっている。
自宅でバッグから出すと、うれしくてたまらないというふうに、くるくるまわりながら走る。抱きあげられることや触られることをきらった。つかまえようとすると目をかがやかせて手をすりぬけていく。
何でも口に入れてしまうため、犬がとどく場所や床にはなにも置かないようにした。
くるくるまわり、走り、飛びはねる、自由。
ひとときもじっとしていなかった。
行動も性格も好きなものも、なくした犬とはまるでちがっていた。
「犬と暮らしたことがあるのだから」と知っているつもりでいたわたしは、途方にくれた。
それから。
毎日ひとつずつ、ちいさな犬のことを知る。
犬と暮らす、あたらしい一日のはじまり。
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##KYOTO
シブヤオールドニュース
伊勢華子 本誌発行人
Kさんが亡くなったことを知らせてくれたのは大家さんだった。
スマホ越しの沈んだ声を聞きながら、Kさんとの最後のやりとりが浮かんだ。
「ここは消すかもしれません」
Kさんが送ってくれた原稿のラストに、そう赤字が入っていた。建物と街のプロデュースを掲げるKさんの会社ホームページを一新するにあたり、読み物としてもオモシロイものにしたい。それにあたって仲介をさせてもらったイセさんに話を聞かせてもらえないかということからはじまる、Kさんによるわたしのインタビューをまとめたものだった。
〈渋谷に勤めをしていた頃から「私」はイセさんの存在を知っていて、いつそれを本人に打ち明けるか悩んでいた〉
赤字で消すかもしれないと指定が入っていたのは、そんな内容の箇所だった。最後の最後で、インタビュアのKさんが「私」として登場するので読みにくいのではないかというのが制作チームの意見らしかった。
赤字について、わたしはKさんに一任することにした。
十何年も前のことをそんなふうに抱えたままこれまで幾度となく打ち合わせしたり、意見をぶつけ合ったと思うと、Kさんのらしさを垣間みるようだった。そうしたやりとりの末に完成した町家。吹き抜けの梁も、100年前の土壁も、それが立ち並ぶ路地も、改めて眺めるとKさんとやりとりしたものばかりが散りばめられていた。
消しちゃっただろうか。
一任したはずのインタビューのラストが急にわたしは気になった。
Kさんのささやかながら勇気のいる告白に、わたしは返事をしてなかった。返事をしないままKさんがいなくなってしまったことに行き場のない焦りと哀しみが込み上げた。
ミヤシタパークが宮下公園だったころ、公園脇の歩道で涙ぐんでいたKさんを追いかけてハンカチを渡したかったと伝えたかった。このまま会社に戻るのがツラい。新卒不可の会社に、新卒同然で入ったはいいけれど失敗つづきで上手くいかない。夕方の公園脇でたまたま遭遇した友だちに話していた時、友だちの隣にもうひとりいたでしょ。それがわたしです。
大家さんは、お通夜は明日の夜七時からだと言い、電話は切れた。
スマホが耳から離れると、画面にインスタだけが残った。Kさんのインスタはどれもさっき投稿したみたいに生温かった。
出会った日の記憶は違っても、再会した日の記憶は一緒だ。コロナ禍だったこともあり、モニター越し、不動産という立場のKさんと顧客のわたしというシチュエーションでの再会だった。
Kさんは出会った日と同じ、大きな袖の服を着ていた。風船みたいに袖の膨らんだその服がわたしは好きだった。物件を探すにあたり、わたしがあれこれ話しているとフムフムと頷いていたKさんが、急ににやりとした。どうしたのかと尋ねると「長年、物件の企画や仲介をやってきて、どういう街に住みたいとか、こんな広さがいいとか、自分の好みを言う人はいるけど、自分の嫌いなことを言う人ははじめてだ」と言った。
夕方、ひとり自転車をこいで白峰神社の横にあるKさんの事務所まで行ってみた。見上げると境内を望むKさんの事務所の窓のカーテンが閉まっていた。カーテンが閉まっているのはKさんがいないからじゃない。西日が凄まじいからだ。そう思いながら帰ってきた。
それでも渋谷を歩くたび、この人混みのなかにはKさんが風船みたいに膨らんだ袖の服を着て歩いている気がして、わたしは探してしまう。どうして渋谷にはそんな力があるんだろう。それが大都市の優しさなんだと知っているほど、わたしはたくさん生きたのかもしれない。